2009年02月20日

卒業旅行

帰ってきました。



石垣の海は青かったです。紳助が良く行くのもわかります。

写真はmixiでご覧下さい。



1日目

5:30起床。6:00に家を出る。6:18のバスに乗り羽田へ。
7時くらいに着く。8:40の飛行機で那覇へ。
前ん時はハサミとドライバーで二回引っかかったので今回は学習しました。
11時過ぎくらいに那覇に着き、乗り継ぎ。12時発の飛行機で石垣へ。

13時過ぎに到着。
ホテルのロビーにあるカウンターでさっそく沖縄そばを食べる。泡盛に島とうがらしがつけてあるやつをかけて食うとうまい。

14時ごろタクシーでホテルに到着。海のすぐ近くだけど港なのでキレイではない。

14:30フェリーに乗ってお隣の竹富島へ。
竹富島は沖縄で唯一沖縄らしい村の形(平屋、赤レンガ、石垣)が残る場所だとか。
ものすごいちっちゃい島です。端から端まで2kmくらいだそうな。
15:30の水牛車に乗るため、その辺をぶらぶらして待つことに。
みんなざわわざわわと言い始める。
景色はすごいきれいでした。ほんとにイメージ通りの沖縄って感じで。
水牛車でゆっくり村の中を回る。団体のおじちゃんおばちゃんがものすごい元気でした。酒の臭いがぷんぷんと・・・。
その後は自転車を借りて海岸方面へ。
星砂の浜で星砂を探したけど、あんまり見つからず。砂が全部星砂なのかと思ってたら普通に砂にたまに混ざってるって感じでした。
雨が降ったり止んだりの微妙な天気と気温でしたが、それでも自転車で走るのも気持ちよかった。

17時過ぎのフェリーで石垣に戻る。沖縄と言えばの、ブルーシールアイス(パイナップル味)を食べる。
一度ホテルに戻ってチェックインしてから焼肉屋へ。
特上ロースが超うまい。かなり分厚いのに柔らかい。書いてなかったけどあれは石垣牛だと信じてる。
結局飲みながら話してたら10時過ぎに。
近所のコンビニシーサーで朝ごはん(サーターアンダギーにした)を買って、ホテルに戻る。
風呂入ってごろごろ。すぽるとでNBAオールスターやってて若干凹む。観たかったなぁ。


2日目

8:15ロビー集合。8:50のフェリーで西表島へ。本当は浦内川に近い上原港に行きたかったけど強風で欠航だったので、反対側の大原港へ。
そこからバスに乗って一時間ちょっとで浦内川に着く。
途中イリオモテヤマネコが飛び出してこないかと期待してたが来ず。
ボートで8km上り、そこから歩いて二つの滝を目指す。往復4kmで、起伏もほとんどない適度な道でした。なかなか楽しかった。

帰りも大原に戻らなきゃいけないのでまたバスに。
西表は結局これだけだったけど他に見るものは、水牛車で海を渡る由布島とか温泉くらいなのでまぁ良かったかな。バスから由布島見えたし。

石垣に戻ってお土産屋をぶらぶら。当たり前だけどどの店も同じようなのばっかりです。あんなにあって商売になるんだろうか。

夜は定食屋的なところに。ANAの飛行機乗った人がもらえるクーポンを使って全員ソフトドリンクサービス+二人がちゃんぷるー御膳をただで食べる。残り二人はチャンプルー定食、俺は石垣牛スジ丼セット。これだけ食べて一人500円。安すぎる…。

二日目も部屋に帰った後は風呂に入りごろごろ。22時くらいにきうとたろーが来て、ジャンプ読みながらリンカーンを見て23時ごろに帰る。なにしに来たんだ・・・。



3日目

8:30ホテル出発。
カモとたろーと宮良川で90分のカヌー体験。きうとpanはガラス工房へ。
愛知出身なのに妙にノリの良い、「〜だと思ってください」と「〜が合言葉です」が口癖の、元木にちょっと似てるお兄さんがインストラクターでした。
カヌーって良く転覆するイメージだったんだけど、今までこのツアーで転覆した人はいないそうで。
3日目は良い天気だったこともあり、すごい気持ち良かった。体を動かすっていうのはやっぱりいいね。
デジカメのストラップが首にかけられるのじゃなかったので写真はありません。たろーかカモのをご覧下さい。

その後マリーンズがキャンプしてるところまで送ってもらい、panきうと合流。大して見ずにレンタカーで移動。
panが運転して俺がナビするという普通とは完全に逆な状態。でも俺以外みんな地図を回して見る人達…。

川平湾へ向かう前に昼食。
A&Wという沖縄にしかないらしいハンバーガー屋へ。確かに変わったメニューが多い。
ルートビアという飲み物が、ドクターペッパーをまずくしたやつだとカヌーのお兄さんが言ってたから期待してたのに普通にいけちゃったからがっかり。
カーリーポテトが、カレー味だと思ったら曲がってるという意味のカーリーだった。明らかに長すぎるんだけどどうやって作ってるんだろう・・・。

特に問題もなく川平湾に到着。迷いようがない道でした。
すげーキレイ。まさに南の島。
グラスボートで熱帯魚&サンゴ観察。海で普通に熱帯魚が泳いでるとなんだか不思議な気分です。
海蛇を二匹も見た。結構普通にいるもんなんだね。ていうかあの生き物はなに?蛇?どうやって息してるの?
しばらく砂浜をぶらぶらして遊ぶ。
ベタに砂浜に文字を書く。ここらへんがみんなのテンションが一番高かったような。無駄にジャンプとかしてました。
またアイスを食べる。今度は紫芋ソフトクリーム。

帰りはちょっと寄り道して北西にある灯台へ。
こちら側はさんご礁がなく割とはげしい波でした。

ホテルに戻って車を返し、タクシーで空港へ。

18:05発の飛行機で那覇へ。那覇20時発の飛行機で羽田に戻る。








疲れたけど楽しかったー。
このメンツでちゃんとした旅行って初めてだったけどやっぱり楽しいなぁ。もう一度行きたいくらいです。


気づいたら2月ももうすぐ終わるなぁ・・・。
posted by ヤマ at 01:18| 東京 ☁| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月15日

RE:form

やべぇ、最近ほんとダメ人間。


バイト行く→帰る→飯を食う→風呂に入る→映画かアニメを観る→寝る。




もはや完全にフリーターだな。

運動しようと思います。地味に腹筋やったりしてます。
ランニングもしよう。


前回は映画5本借りてましたが、先週また半額だったので4本借りてました。


『12モンキーズ』

SFファンは必見の映画っていうイメージだった。
完全にいかれてるブラッド・ピットが素敵でした。『ベンジャミン・バトン』観たいなぁ。でも確か2:47とかアホみたいな長さなのでちょっと迷います。
人類がほとんど死んじゃった原因を調べに未来から過去へ調査に行くブルース・ウィルスのお話です。
過去を変えちゃうと未来が変わる。となると未来からは来ないなんていう矛盾はよく言われますけど。
これは未来からの工作含め、今の未来になっているのでまったく矛盾なし。
なかなか面白かった。


『パッチギ』

話題の沢尻様。演技を一度も観てなかったので、ほんとに偉そうなくらいうまいのかと思ったら完全に大根でした。まぁこれで注目されるようになったんだから今は違うのかも知れないが。
井筒さんは人にあれこれ言うのでどうなんだと思ったら素晴しかったです。
素直に感動する良い映画でした。
出てるメンツもかなり豪華だし。
宮崎あおいの夫とか小出恵介とかオダギリジョーとかケンドーコバヤシとか。豪華…?
日本だって朝鮮に関する人種問題っていうのはかなり使えるネタだと思うのですが、あんまりないですよね。昔は陰に陽にあったんだろうけど。
アメリカみたいに宗教とか人種の問題をもっと含ませるっていうのは大事だと思います。



『ユージュアル・サスペクツ』

シネコンウォーカー2月号に予測不可能なラスト特集みたいなので載ってました。
割かし有名なのに観てなかったので。
その気で観ていたのでオチはわかってしまいましたが。
でも普通に面白かった。


『レオン』

キーラ・ナイトレイはナタリー・ポートマンの影武者としか思っていないナタリーファンなのに観てなかった(※『ドミノ』は好きです)。
12歳であの演技とは末恐ろしいです。沢尻先生も見習って欲しいわ。
感動しました。
でもジャン・レノはなんとなく好きになれません。






明日から二泊三日で石垣島とか西表島に行ってきます。
ヤマピカリャーが見たいです。





先週の木曜から我が家でリフォームが始まりました。
家の壁紙を全部換えたり、お風呂を全部換えたり、色々やります。

俺が生まれるちょっと前に引っ越したから20何年経ってるわけでもうぼろぼろです。
しかし昼間っからしらんおじさんがうろうろしてるしうるさいし臭いし。しかも一ヶ月かかるとか。
めんどくさいので平日はバイトで家にいないことにしました。



そのバイト先でも2月末から春休みまでに改装します。

豊洲が出来た時に、負けないように内装をごまかした換えたんですが、今回はあまりにも汚いシートを全面的に換えるようです。
平日だけ8個のシアターのうちいくつかを閉めてちょこちょこやるというめんどくさい工事で、お休みにはなりません。



そう言えば3月末まで平日使える招待券を三枚持ってます。
木場に来る物好きがいらっしゃったら差し上げますよ。






映画ついでにツタヤでチャットモンチーといきものがかりと攻殻機動隊のO.S.Tを借りました。

チャットモンチーは良い!女の子三人とは思えない音です。かっこいい。
前から聴いたらはまるだろうなぁとはなんとなく思ってたんだけど。
ちゃんと聴いたら原因がわかった。
YUKIに声が似てる。曲によるけど。
『てのなるほうへ』のAメロとかYUKIにしか聴こえません。最後の「だ」の発音とか特に。
なぜJUDY AND MARYのトリビュートアルバムにチャットモンチーがいないのか。
ていうかミヒマルGTとかまじいらね。しかも『over drive』とかあり得ん。いますぐ代えてくれ。
大塚愛と木村カエラといきものがかりとPUFFYと民生さんには期待したい。
『飛び魚のバタフライ』めっちゃ面白そう。やりてー。けどそろそろキャパが…。



いきものがかりは期待してた割にはあんまりでした。『ニセモノ』は好きなんだけどなぁ。


攻殻機動隊はやばい。菅野さん最高・『GET9』とか『RISE』とかかっこよすぎる。





明日の準備するかー。6時に家を出るってなんだろう。沖縄はあったかいと良いなぁ。
posted by ヤマ at 18:15| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月01日

「ポスト古典的ハリウッド映画のスペクタクル性についての考察」

来週卒論の口頭試問とやらがあるので。自分でまとめなおすのも含め、書いてみる。





序論
 
 今日のハリウッド映画はスペクタクル性が重視され、物語性がないがしろにされているようにも見える。
しかし、このポスト古典的ハリウッド映画をめぐるスペクタクル性対物語性という二項対立の考え方は本当に正しいのだろうか。
本論文ではポスト古典的ハリウッド映画の代表とも言える『マトリックス』三部作(『マトリックス』、1999年、『マトリックス・リローデッド』、2003年、以下『リローデッド』と表記、『マトリックス・レボリューションズ』、2003年、以下『レボリューションズ』と表記、ラリー&アンディ・ウォシャウスキー)を取り上げながら、ポスト古典的ハリウッド映画のスペクタクル性について考察する。



第一章 「ポスト古典的ハリウッド映画」

 第一節 「古典的ハリウッド映画」

 まずポスト古典的ハリウッド映画を語る前に、古典的ハリウッド映画の歴史と特徴をまとめようと思う。
 ハリウッドが最初に注目を浴びたのは1910年代初頭だった。
ニッケルオデオンという安く見れる映画館が大ヒットしていて、ハリウッドは気候の良さ(年中安定して製作できる)や人件費の安さによって注目された。
また、制作会社にいやがらせをしてくるエジソンからも離れることが出来た。
その後1915年までにはハリウッドで15000人が雇われ、アメリカの映画制作の60%を占めた。それが10年後には90%以上になった。

 この時代に数々の語法や技法の体系化が実現したハリウッドの映画こそが、ボードウェルらによって「古典的ハリウッド映画」と呼ばれるものである。
1960年代まで、ハリウッドで支配的なモードだったこの古典的ハリウッド映画は現在でもその特徴の多くが、主流映画の特徴的な形式として残っている。
ハリウッドでは、1930年代前半に定められた「映画製作倫理規定」(プロダクション・コード)が、その後何回かの改正を経ながら1968年レイティング・システムに取って変えられるまで、映画は基本的に老若男女すべての人達を対象として作られてきた。
プロダクション・コードによって過激な描写が禁止されていたからである。
例えば劇中で犯罪を犯す場合、その手口は詳細に描かれてはいけないし、また罪を犯したものは劇中でなんらかの罰が与えられなければならなかった。
また、性描写も厳しくチェックされ、脱衣場面は避けられ男女はベッドを共にすることも禁止された。
このプロダクション・コードによって古典的ハリウッド映画の文法は確立されたし、その崩壊と共に文法も崩れ去ることになる。
 デイヴィッド・ボードウェルは、古典的ハリウッド映画の特徴は「目標を志向する主人公、統一性とリアリズムの原理への依存、時間的・空間的一貫性の機能、不可視の観察者の重要性、結末の恣意性」であると述べている。
古典的ハリウッド映画において、最も基本となるものが「因果関係」である。
古典的ハリウッド映画の主人公は、なんらかの理由によって非日常に巻き込まれ、それらを解決しようと目標に向かって努力をする。
古典的ハリウッド映画は、リアリズムに依存している(道路には車が走っている、主人公はその車に乗ってどこかに行く、など)。
これは観客がなんの説明もなしに映画を観ても簡単に理解ができるようにという配慮である。
古典的ハリウッド映画は、時間的・空間的に一貫している。
フラッシュバックなどの特殊な場合を除き、出来事は順番通りに起こる。
またシーンが変わる時は、そこがどこでどのような状況なのかが、画面や字幕・台詞によって説明される。
古典的ハリウッド映画は不可視の観察者によって語られている、と言える。
限られた時間・空間の中の出来事は、カメラの前で独立して起こっているかのように見え、この物語世界を外から観察するものこそが古典的な語りである。
これによって、物語は作られたものではなく、語りによって表象される前から存在していたように思われるようになる。
古典的ハリウッド映画のエンディングは、因果関係の終結という形で現れる。
すなわち、主人公が問題を解決、目標を達成(あるいは失敗)することによって物語は終わる。
しかし、不十分なプロットの解決で映画が終わってしまうこともあり、古典的ハリウッド映画のエンディングは、なんらかの原因でこじれてしまった世界を恣意的に再調整するもので、決定的とは言えない。
そこで重要になるのが、異性同士の恋愛というラインである。
古典的ハリウッド映画の多くは、最後に男女が結ばれて終わる。
因果関係の終結と男女の愛の成就という二つのプロット・ラインがエピローグに挿入されることにより、「終了の効果」が生み出される。実際には大きな問題の解決によって小さい問題の解決がされていないまま終わってしまうこともある。

 古典的ハリウッド映画は、特徴ある登場人物がなにかの原因によって起きた問題や目標を、解決・達成しようとする物語である。
その表現は、観客が自然と理解できるよう、時間的・空間的に一貫しており、物語はリアリズムに依存した形で進行する。
最終的に小さな問題が解決されないこともあるが、大きな問題と異性の恋愛という二つのプロットが終結することによって、観客には終結感がもたらされる。
以上が古典的ハリウッド映画の特徴である。


 第二節 「ポスト古典的ハリウッド映画」

 
 ハリウッド映画において最も重要な出来事の一つがプロダクション・コードからレイティング・システムへの移行である。
この移行の少し前から「古典的ハリウッド映画」は徐々にその形を崩していった。
そしてレイティング・システムに代わったことが決定的となり、「古典的ハリウッド映画」も「ポスト古典的ハリウッド映画」に移行することとなる。

 プロダクション・コードは50年代になると徐々に空洞化していった。
その原因の一つが「パラマウント訴訟」と呼ばれる事件である。
これは、映画の安定的な供給のために、制作・配給・興行をすべて牛耳っていたビッグ5(パラマウント、MGM、20世紀フォックス、ワーナー・ブラザーズ、RKO)とリトル3(ユニバーサル、コロンビア、ユナイテッド・アーチスト)が、独占禁止法で敗訴した事件である。
これをきっかけにハリウッド映画の制作はほとんどが独立系の会社で行われるようになった。
また、テレビの人気に押され、人気が低迷した映画は、観客を取り戻すために、様々な映画を作るようになった。
その中の一つが独立系が主に作った「キワモノ映画」と呼ばれるものである。
これは、プロダクション・コードをあえて無視するという点を売りにして観客を集めた。
これを真似する会社が増え、プロダクション・コードは有名無実化していった。
60年代には大作映画がどんどん作られた。
しかし、『クレオパトラ』(1963年、ジョセフ・L・マンキウィッツ)に代表されるように、多額な制作費をかけても、大赤字を出してしまう例が少なくなかった。
そして1968年、プロダクション・コードに変わって、レイティング・システムが始まり、またスティーブン・スピルバーグとジョージ・ルーカスの登場によって、古典的ハリウッド映画は終りを迎えた。
ポスト古典的ハリウッド映画の代表が「ブロックバスター」と呼ばれる種類の映画である。
これはテレビなどの他のメディアを最大限に利用し、大規模な広告をうち、観客の期待を煽って全国で一斉に公開する。
公開後はテレビなどで2次、3次利用をする映画のことである。
そのブロックバスターの最初とも呼べるのが『JAWS/ジョーズ』(1975年、スティーブン・スピルバーグ)だった。
アカデミー作曲賞を受賞したジョン・ウィリアムズの印象的な音楽と共に流れる広告がテレビ・ラジオで延々と流され、新聞・雑誌にも大量に載せられた。
こうして期待を高め一斉に公開された『JAWS/ジョーズ』は空前の大ヒットとなった。
ブロックバスター映画は、イベント性の強いスペクタクルを前面に押し出しており、謎が散りばめられた構成は観客の関心を呼んだ。
古典的ハリウッド映画の特徴であった一貫した物語と空間・時間の構成はかなり緩やかなものとなり、途中で物語に直接関係のないような挿話が増えていった。
そしてその2年後『スター・ウォーズ』(1977年、ジョージ・ルーカス)が公開された。この作品こそが映画のスペクタクル性を根本的に変えた作品だった。

 第三節 『スター・ウォーズ』

 『スター・ウォーズ』の大きな特徴の一つは、それまでの映画と違い複数のジャンルを意識的に混ぜ合わせ、映画を作り上げている点である。
ルーカスは、J・R・R・トールキンの『指輪物語』、ジョセフ・キャンベルの『千の顔を持つ英雄』やSFや神話に関する様々な文献を研究し、普遍的な物語を作り出そうという狙いを持っていた。
特に『千の顔を持つ英雄』という本は、ルーカスが大学でキャンベルの授業を受け、大いに感銘を受けたものである。
この本の中で書かれている、世界の英雄に共通しているという構造をそのまま当てはめて作ったものが『スター・ウォーズ』であり、その狙い通り世界中でこの物語は受け入れられることとなった。
こうした神話や他の映画の影響をはじめ、SF・西部劇・戦争映画など様々な要素が組み込まれている『スター・ウォーズ』はジャンル分けすることが不可能であり、また無意味である。
これは監督が意識的に、観客に解釈をさせるようにあらかじめ仕組んだものであり、ポスト古典的ハリウッド映画におけるスペクタクル性の重要な要素である。
この流れは『マトリックス』にそのままつながるものであり、注目に値する。
『マトリックス』は「ポスト古典的ハリウッド映画の元祖」とも呼べる『スター・ウォーズ』以上にオマージュに溢れ、哲学や聖書からの引用がある。

 こうして様々な要因がありながら古典的ハリウッド映画はポスト古典的ハリウッド映画と呼ばれるものに移行していった。
しかし、この二つは完全に区切られているものではなく、連続したものと考えるべきである。
ポスト古典的ハリウッド映画は自己言及的表現を多く含む。
「ハリウッド映画の一般的な約束事やジャンルの規則をただ単に守るのではなく、故意に逸脱したり、あるいは前景化したりすることによって逆にそれらを観客に明確に意識させ、ゲームの中に引きずり込む」のである。
最新の技術を駆使した視覚的な過剰さだけでなく、そうした自己言及的表現の意味上の過剰さこそ、ポスト古典的ハリウッド映画におけるスペクタクル性の特徴であると言える。
それゆえポスト古典的ハリウッド映画は、古典的なハリウッド映画とは全く別のものではなく、過剰な古典主義の映画であると言える。
この過剰な古典主義と呼べるものについて、『マトリックス』三部作を取り上げ考察したいと思うが、次章では、『マトリックス』三部作のあらすじ、物語性、スペクタクル性についてまとめる。



第二章 「ポスト古典的ハリウッド映画」としての『マトリックス』

 第一節 『マトリックス』三部作のあらすじ

省略。観れ。

 第二節 『マトリックス』の物語性

 『マトリックス』のあらすじを追うと、物語の二つの重要なテーマが見えてくる。
それが人類救済と愛である。

 主人公がなにかの問題を解決するプロットと、それと平行して展開する男女の恋愛というプロットは、古典的ハリウッドの時代から重要であり、それはなにも変わっていない。
主人公アンダーソンは、ハッカーをしているということ以外はいたって普通のサラリーマンである。
この時点ではなにも物語は始まらない。
しかし「モーフィアス」という謎の人物を探すことによってトリニティと出会い、エージェント達に追われることになる。
これが最初の原因と結果である。
そしてモーフィアスという原因によって、現実世界を知ることとなるし、機械との戦いに身を投じることとなる。
『マトリックス』三部作としてはネオによる人類救済が大きなテーマであるが、『マトリックス』においては、救世主へと成長をする物語である。
しがないひきこもりがちなサラリーマンだったアンダーソンが、カンフーを極めエージェントと死闘を繰り広げ、最終的には救世主ネオに生まれ変わる過程が描かれている。
様々な因果関係を経ながら、最終的な因果関係の決着が描かれている点は、『マトリックス』も古典的ハリウッド映画と同じであると言える。

 古典的ハリウッド映画の時代から男女の恋愛というプロットは非常に重要でそれは現在のハリウッド映画においても同じである。
『マトリックス』でもネオとトリニティとの愛が物語上とても重要であり、またモーフィアスとナイオビ、リンクとジーの愛についても描かれている。
古典的ハリウッド映画でも取り上げたが、映画のラストで男女の恋愛が成就することによって、観客に終結感をもたらす。『マトリックス』では、この恋愛の成就を物語にうまく組み込むことによって、見事なカタルシスを演出している。
『マトリックス』のもう一つのプロットは上記の通り、ネオの救世主への成長の物語である。
預言者はトリニティに「あなたが愛する人こそが救世主である」と告げる。
物語の最後、エージェント・スミスに殺されてしまったネオだが、トリニティの愛の告白とキスによって「復活」し、エージェントを撃破する。
つまり、『マトリックス』では「トリニティが愛する人が救世主」という設定を作ることによって、二つのプロットの解決を一度に持っていったわけである。
観客はネオの復活とエージェントの撃破、そしてネオとトリニティとの愛の成就を一度に味わい、映画は幸福感を残したまま終了する。
しかし、実際には「マトリックス」の中の一プログラムを破壊したに過ぎず、人間が解放されたわけではない。
こうした点は古典的ハリウッド映画と共通している。

 ポスト古典的ハリウッド映画である『マトリックス』も、因果関係に沿った物語、そして男女の恋愛といった、古典的ハリウッド映画の特徴がしっかりと見受けられる。
また『マトリックス』は古典的ハリウッド映画の文法をあえて逸脱している。
『マトリックス』は緑のコードが流れた後、いきなりトリニティが襲われるシーンから始まる。
古典的ハリウッド映画が、街のショット、ビルのショット、部屋の中のショット、登場人物のショットといった具合に状況設定が観客にわかるように映像を並べているのに比べると、明らかに逸脱している構成の仕方である。
こうした構成によって『マトリックス』は、逆に古典的ハリウッド映画を意識させることに成功している。
これらのことから、ポスト古典的ハリウッド映画は、古典的ハリウッド映画から独立したものではなく、その延長であることがわかる。
次に『マトリックス』におけるスペクタクル性について考察する。

 第三節 『マトリックス』のスペクタクル性

 『マトリックス』シリーズのスペクタクル性の大きな特徴は、映像にかかわるものと内容に関わるものの二つに分けられる。
映像の代表としては、被写体はスローモーションなのにカメラは高速で動く「バレット・タイム」と呼ばれる当時の最新技術や、CG・VFXを駆使した映像、またカンフーやワイヤーといったハリウッドではあまり使われていなかったものを大胆に使ったアクションシーン(もちろんハリウッドが得意とする銃撃戦も大量にある)などがあげられる。
内容としては、人物名が聖書や神話からの引用になっている点(NEOはONE救世主のアナグラム、トリニティは三位一体、モーフィアスはギリシャ神話で夢をつかさどる神であるモルペウスから)や、哲学的な主題に満ちた台詞が取り上げられる。
さらには他のSF作品や日本のアニメからの影響も強く見られ、類似したシーンは数多くある。
日本のアニメの影響を受けていると思われるシーンも数多くある。
例えば『リローデッド』でトリニティがビルから飛び降りるシーンは『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995年、押井守)の草薙素子に、着ている衣装から飛び降り方までそっくりである。
『レボリューションズ』の最後のネオとスミスの戦いは日本人なら誰でも「ドラゴンボール」を思い浮かべるし、センチネルはその大量の触手と目というデザインや、『レボリューションズ』の最後で、ネオが触手に持ち上げられながら光の中へと入っていくシーンは『風の谷のナウシカ』(1984年、宮崎駿)の王蟲を思い起こさずにはいられない。
こうしたオマージュも、観客の解釈を促すという点(詳しくは第3章で言及する)で、映画を商品として売りヒットさせるための重要な要素になっており、それらが数多く含まれた『マトリックス』はブロックバスターとして非常によくできた映画であると言える。
ただ、これら映像面でのスペクタクル性は物語から完全に独立したスペクタクル性であるとも言える。
つまり、これらのシーンはカットされていても物語の進行にはなんの支障もきたさない。

 しかし、哲学・聖書からの主題や引用は、スペクタクルでありながら『マトリックス』の物語に関わってくるもので、単純なスペクタクルではないという意味においてはこちらの方が映画の中でより重要であるとも言える。
『マトリックス』の物語は救世主ネオの物語であり、それ自体がすでに聖書を下敷きとした話である。
ネオやトリニティという名前の設定を変えてしまっては、それはもはや『マトリックス』の世界観・物語として成り立たなくなってしまう。
NEOがONE(救世主)のアナグラムであるということはすでに触れたが、それ以外にも聖書を意識させる描写は数多くある。
例えば、ネオを導き現実世界へ連れて行ったモーフィアスは洗礼者ヨハネを思わせる。
また『マトリックス』の最後で、ネオは一度エージェント・スミスに殺されながらもトリニティの愛によって復活する。
「復活」はキリスト教の中で最も重要な信仰である。
復活こそがイエスの行った最大の奇跡と言え、また復活が救世主としての条件と言える。
 これらの『マトリックス』の物語性とスペクタクル性は、『マトリックス』は観客にどのように受容され、ヒットとなったのだろうか。
そして最後に『マトリックス』の物語性とスペクタクル性から見た「古典的ハリウッド映画」の特徴について考察する。


第三章 『マトリックス』に見るポスト古典的ハリウッド映画

 第一節 なぜ『マトリックス』はヒットしたのか?

 ブロックバスターと呼ばれる映画は、昨今では頻繁に作られるようになっていきている。
『ハリー・ポッター』シリーズは1,2年に1本必ず公開され、すべての作品がかなりのヒットをしているし、『パイレーツ・オブ・カリビアン』三部作もかなりの興行収入を上げた。
しかしなぜ『マトリックス』という、有名な原作があるわけでもなく、有名な監督が撮っているわけでもなく、スーパースターが出ているわけでもない映画があれほどヒットしたのだろうか(キアヌ・リーブスは『スピード』(1994年、ヤン・デ・ボン)でヒットしたもののそれ以降はあまり注目されていなかった)。
それはひとえに製作の狙いがうまくいったからに違いない。
『マトリックス』という作品は、『スター・ウォーズ』以上に作品自体がイベント化された映画だった。
引用に満ちた内容はファンの間で解釈についての議論が広がった。
議論が盛り上がれば盛り上がるほど、テレビでの放映や、DVDの売り上げが上がる。
新たに見た人が新たに解釈を作り出す。
『リローデッド』と『レボリューションズ』は、2作目、3作目でありながら同じ年に公開され、また本編を補完する話として『アニマトリックス』が発売された。
また、『レボリューションズ』の公開は全世界同日同時刻に行われ、主演のキアヌ・リーブスはこれを東京で迎えた。
こうした映画の中だけではなく外でもイベント化され、再商品化が進むことで『マトリックス』はヒットしたと言える。
『リローデッド』の興行収入が『レボリューションズ』のそれに比べてはるかに多いのは、『マトリックス』の続編という期待と、ラストへ向けて更なる伏線が張られたことが要因だったのではないだろうか。
だから、『レボリューションズ』の公開と共にすべて明らかになってしまった後は(もちろん映画の中で完全に説明されないことは数多くあるものの)、盛り上がりも終息していったと言える。

 ウォシャウスキー兄弟は、幼い頃からコミックと映画に囲まれた生活をしており、『マトリックス』はその趣味がそのまま映画化されたような作品となった。
その結果、様々な要素が詰め込まれた映画が出来上がったのは、2章に書いた通りである。
それらの要素が多種多様な人物によって解釈されている。
しかし、この解釈は妥当なのだろうか。
確かにウォシャウスキー兄弟が明言しているように、『マトリックス』はボードリヤールの影響を受けているし、『攻殻機動隊』を参考にしている。
しかし、それらはすべて監督に仕組まれたものである。
あらかじめ解釈されることを狙った描写をそのまま受け取ってもそれは意味をなさない。
例えば、『レボリューションズ』の最後、ネオが触手に持ち上げられ、光り輝いているショットがあるが、これはあからさまに『風の谷のナウシカ』を意識している。
救世主が犠牲となることによって機械と人間による新たな世界(『ナウシカ』では腐海と人間との新たな世界)が誕生するというシーンである。
しかし、宮崎駿監督にとってナウシカという救世主が女性であることは、非常に大きな意味を持っている。
宮崎作品で男性が救世主的役割を与えられることはまずないであろうし、聖書をベースにした『マトリックス』で女性が救世主となることもない。
このように一見影響を受けて作られているようなショットも少し深く考察すれば粗が出てしまう。
よって、それらを正しく引用しているかどうか、という議論は無意味である。
これらのスペクタクル性は解釈行為を呼び寄せるためだけに用意された、いわばうわべだけのものである。
では『マトリックス』はそういったスペクタクルを全面に押し出した、ただの商業映画なのか?

 第二節 『マトリックス』の自己言及的表現

 結論から言えば『マトリックス』はスペクタクル性だけの映画ではない。
前章でも述べてきたように、古典的ハリウッド映画から継承されてきた物語性というものも強く残っている。
しかし、この物語性は古典的ハリウッド映画の物語性と同一視すべきではない。
『マトリックス』の中では、スペクタクル性と物語性の境界は限りなく曖昧になっている。
『マトリックス』は、古典的ハリウッド映画の文法をあえて崩す、あるいは強調するといった自己言及的側面を持っている。
『マトリックス』において「物語は軽視されるどころか以前にもまして重要な役割をはたしているが、それはスペクタクル化というプロセスをへて変貌したメタテクストとしての物語である」。
スペクタクル対物語という二項対立は成り立たず、互いに影響しあうことによって、ポスト古典的ハリウッド映画は成り立っている。
ここで自己言及的な台詞を言う『リローデッド』でのメロビンジアンとの会話を端緒に、『マトリックス』三部作を分析することによって、古典的ハリウッド映画とポスト古典的ハリウッド映画(の代表である『マトリックス』)の関係について、考察してみようと思う。

 『マトリックス』三部作を通じて常に語られている主題に「原因と結果、選択」がある。
「原因と結果」とは、すでに第1章で述べたように古典的ハリウッド映画における重要な要素である。これは単なる偶然ではないはずだ。この自己言及的表現は古典的ハリウッド映画とポスト古典的ハリウッド映画の関係を考察する上で非常に興味深いものとなる。
『マトリックス』三部作の中でも、最も因果関係について雄弁に語っているシーンが『リローデッド』の中で、ネオ達がキー・メイカーを求めて初めてメロビンジアンと対峙する場面である。
そこで彼はこう言う。

メロビンジアン「君はどうだ?本当はわかっていない。君は指示されてここへ来た。行けと言われるまま従った。物事はそんなものだ。不変の真実がある。全てを支配する唯一絶対の真実がね。因果関係だ。作用、反作用。原因と結果。」
モーフィアス「まず選択がある。」
メロビンジアン「いや、違う。選択は幻想だ。あるのは力を持つ者と持たぬ者だけ。(中略)我々は否定しようとするが見せ掛けにすぎない。平静を装ったすぐ下に完全に抑制を失った我々がいる。それが真実だ。因果関係。我々は永遠にその奴隷なのだよ。唯一の希望と安らぎはその理由を理解することだ。そこが私と彼らの違いだ。君らと私とのな。理由こそが力の源。欠けば無力だ。」

 メロビンジアンはすべての事柄は「因果関係の永遠の奴隷」であり、そこに選択の自由はないと言う。
これはまるで古典的ハリウッド映画の登場人物を指しているように取れる。
古典的ハリウッド映画の登場人物は、なにがしかの理由で非日常に巻き込まれ、それを解決しようと努力をする。
因果関係がなければ彼らの物語は成り立たず、存在しないことになってしまう。
『マトリックス』におけるプログラムは、古典的ハリウッド映画の物語性そのものに対する自己言及であると言える。
オラクルもまた、ネオに対して選択の揺さぶりをかける。
オラクルは終始、問題は「すでにしてしまった選択をどう理解するか」だと言い続ける。
対してネオ達は自分達の選択・自由を信じ続けながらも、常に本当はプログラムによってすべて決まっていたことなのではないかという疑問と戦い続けることになる。
プログラムが古典的ハリウッド映画の物語性なら、それに対する人間(アノマリー)はポスト古典的ハリウッド映画における物語性を示しているのではないか。
ネオとトリニティの愛情が、ポスト古典的ハリウッド映画における物語性そのものであることからもそれがわかる。
ネオは常に選択の自由という確信が本当なのかどうか悩まされる。
自分は本当に自分の選択で行動しているのか。
それとも因果関係に縛られすべて予定通りの行動しかしていないのか。
映画の中ではそれに明確な結論が出ることはない。
しかし、明確な結論をウォシャウスキー兄弟自身出せなかったのではないだろうか。
ネオやこれまでの救世主はプログラムによって生まれたアノマリーである。
彼らはソースに帰ることにより、ソースをさらに上書きして完璧なマトリックスを作り上げるという役割を果たす。
これを映画に置き換えてみるとどうだろう。
ポスト古典的ハリウッド映画は古典的ハリウッド映画を元に生まれたものであり、映画そのもののあり方を上書きしてさらにより良い映画を目指す。
ポスト古典的ハリウッド映画は常に因果関係と選択の自由に悩まされる。
すなわち製作者は、自分は新しいものを作ったつもりでも古典的ハリウッド映画の文法を抜け出せていないのではないか。
あるいは逸脱したと思っても、逆に古典的ハリウッド映画を意識させることになってしまっているのではないか、という疑問である。
『レボリューションズ』は最後に、ネオを吸収したはずのスミスがみな消滅してしまい、マトリックスに平和が訪れる。
スミスというキャラクターは、ネオによって生まれたアノマリーであり、ポスト古典的ハリウッド映画におけるスペクタクル性への自己言及であると言える。
自分自身をコピーさせ、何千人ものスミスが並んでいるシーンは、現代のVFX技術があるからこそできるものである。
最後の戦いの中、いくら殴っても立ち上がろうとするネオに彼はこんなことを言っている。

スミス「なぜ立ち上がり戦い続けようとする?命を捨ててまで守りたいものがあるのか?それが何か分かっているのか?自由か真実か平和かそれとも愛か?それはただの幻想だよ。愚かな人間の知性が意味も目的もなく存在するのを正当化するための幻だ。マトリックスと同じ虚構なのだ。つまらん愛とやらを作り出せるのは人間だけだが。そろそろわかっているはずだ。君は負ける。戦う意味はない。なぜだ?なぜそこまで戦う?」

 平和や愛という古典的ハリウッド映画の重要な要素を、幻想だと切って捨てるスミス。
そしてポスト古典的ハリウッド映画の物語性へと勝利を宣言し、スペクタクル性の勝利で終わるかと思われる。
しかし、その後自分が予想もしていなかった「始まりがあるものには終わりがあるネオ」という台詞を言うことで自分の中に制御できないオラクルが残っていることを知る。
スペクタクルは勝利を目前にして、自分の中に古典的ハリウッド映画の物語性がまだ残っていたことに気づいたのだった。
それに対してネオは「お前は正しかった。これは必然だ」と言う。
恐怖に怯えたスミスはネオを吸収するが、オラクルの言った通りネオとスミスは対極の存在であり、同化した時点で消滅してしまう。
その結果、マトリックスには平穏が戻るが、そこは以前までのマトリックスとは大きな違いのある新しい世界であることは間違いない。
しかし、最終的に選択の自由が存在するのかどうかは語られないままである。

 第三節 『マトリックス』に見るポスト古典的ハリウッド映画

 『マトリックス』三部作は「古典的ハリウッド映画」対「ポスト古典的ハリウッド映画」、あるいは「スペクタクル」対「物語」という二項対立をビジュアル化してみせている。
そこで語られているのは、古典的ハリウッド映画とポスト古典的ハリウッド映画は密接に関係したものであり、互いに独立したものではない。
スペクタクル性と物語性は二項対立として考えられてきたが、それら二つが混ざり合うことによって映画の新たな世界が開ける。
ネオはそれを「必然だ」と言う。
映画をめぐるシステムの変化や技術の革新によって、新たに生まれたスペクタクル性が物語性と同化するのが必然だ、と言うのである。
そして新たな世界を作った主人公ネオは、タイトルの通り映画界に新たな「革命」を起こした『マトリックス』三部作自体を現していると言える。
『マトリックス』三部作では、ネオは選択の自由を持っていたのか、それとも因果関係に操られていたのか、わからないままである。
ポスト古典的ハリウッド映画も、いまだ古典的ハリウッド映画の影響を強く残す。
古典的ハリウッド映画の文法をあえて崩すことで古典的ハリウッド映画からの逸脱を図っても、過剰な古典主義と受け取られてしまう。
メロビンジアンの言う通り、ある意味でポスト古典的ハリウッド映画は古典的ハリウッド映画の「永遠の奴隷」なのだ。
しかし、その中で『マトリックス』は選択の自由を信じて、物語性とスペクタクル性の融合を模索した。
古典的ハリウッド映画においてスペクタクル性と物語性のバランスは均衡していた。
ポスト古典的ハリウッド映画では、そのバランスを崩しながらもなんとか形は保たれているのが現状と言える。
『マトリックス』は自らがスペクタクルを大いに利用しながら、スペクタクル性の優位に警告を発しているという矛盾を持った映画である。
こうした模索や矛盾の先にポスト古典的ハリウッド映画の面白さと、今後の映画の可能性が秘められているように思う。
この映画を、スペクタクルを賞賛している映画として受け取るか、スペクタクルを否定している映画と受け取るか。
『マトリックス』は、ポスト古典的ハリウッド映画におけるスペクタクルについての疑問を投げかけ、それについて考察する機会を与えてくれる。
ネオの生死をあえて描かず曖昧にしている『マトリックス』は、どちらとも取れるようになっており、それはあたかも観客が決めるものだと言っているようである。
ウォシャウスキー兄弟は『マトリックス』三部作で、アーキテクトの言うように「危険なゲーム」をしたのだ。
この映画を観た人の多くは、現在の映画は物語よりスペクタクルが勝ってしまっていると受け取るかもしれない。
しかし、ネオとスミスによって新しくなったマトリックスにサティがきれいな朝日を出したのは、『マトリックス』をきっかけにして物語とスペクタクルの新たな関係が生まれることを期待してのことだったのではないだろうか。


 まとめ

 古典的ハリウッド映画の歴史に始まり、ポスト古典的ハリウッド映画の代表『マトリックス』三部作まで考察してきた。
その中でわかったことは、古典的ハリウッド映画の要素は、ポスト古典的ハリウッド映画の中でも重要な位置を占めており、二つは切り離して二項対立で語れる問題ではない、ということである。
ポスト古典的ハリウッド映画のスペクタクル性と物語性についても同様である。
これらの要素は有機的に絡まり、お互いを支えあうことで、ポスト古典的ハリウッド映画は成り立っている。
『マトリックス』三部作の中で、このテーマはビジュアル化されている。
私達はこの自己言及的表現によって、ハリウッドのクリエイター達がこれからの映画の可能性を模索していることを、感じ取ることが出来た。
『マトリックス』三部作が完結してすでに5年経つが、まだ新たな映画の革命は起きていない。
しかし、歴代の救世主によって少しずつ上書きされていったマトリックスのように、映画界に「革命」を起こした『マトリックス』のような作品が積み重なっていくことで、これからの映画はさらなる進化を遂げていくのではないかと思う。
『マトリックス』のような模索が続く限りは、ハリウッドの映画は進化を続け、衰退することはないだろう。






オタクを極めるとこうなります。気をつけましょう。


最後までちゃんと読んだあなたは偉い。いや、むしろそんな人いないだろうと思うけど。
まとめるつもりがコピペの楽さに気づき、貼りつけまくっちゃった。

試験めんどくせー。
posted by ヤマ at 00:30| 東京 ☁| Comment(5) | TrackBack(0) | 映画(ネタバレあるかも) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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